
これは究極の母親の愛なのだろうか?それとも、究極の自己満足なのだろうか?息子のためと一言いえば、自分の命は助かるかも知れない。しかし、セルマは決してそうはしなかった。何故?目が見えなくなると言う不安をもし息子が抱けば、息子の目が見えなくなってしまうと信じ込んでいたからだ。実際、そんなことがあるはずがないのに。盲目的に信じ込んでいたからだ。彼女は、ただ、息子のためだけに自分の意志を貫き通した。 セルマの心は常にミュージカルという空想の世界にいた。働く工場の音はリズムとなり、仕事中の彼女を華麗なるミュージカルの世界へと誘う。鉄橋を渡る列車の音は、告げられない真実を、廊下に響く足音は、歩を進める勇気を。彼女の心には、常にミュージカルが鳴り響いていた。現実から目を閉ざして、空想の世界でセルマはミュージカルダンサー。 空想の世界と現実の世界。セルマの中には常に二つの世界があった。夢であって欲しいことが現実で、現実であって欲しいことが夢。全てが逆なら・・・視力を失い、光を失い、職を失い、友を失い、生活を失い、息子の光さえ失いかねない。全てを失おうとする極限の状況の中にセルマは居た。そんな彼女の手に最後に残った夢。最期の時に握りしめられたたった一つ、思い焦がれた真実。そのたった一つの真実を得るためだけに、セルマは自分の信じた道を生きた。 それが究極の母親の愛なのか、究極の自己満足なのか、そんなことはどうでもいい。ただ、セルマが生きた、その命は決して無駄ではなかったと言うこと。その事実だけが握りしめられていればそれでいい。 現実の世界の暗闇の中で苦しみ踊った踊り子は、空想の世界の溢れる光の中で、輝いていた。彼女の全てを歌に託して・・・ |
ロザンナ・アークエットは迷っていた。子供が生まれ、家庭と女優と言う仕事を両立させることは可能なのかと。彼女はその迷いが、女優を仕事としている女性の全ての悩みだと考え、知り合いの女優にインタビューを試みる。そこで語られる女優たちの言葉の数々。中には30台半ばを過ぎ、演じさせてくれる場が激減して、愚痴を言う女優もいれば、ジェーン・フォンダのように、自分の生きてきた道にゆるぎない自信を見せ付けてくれる女優もいる。(多少、演技がかっていたのも否めないが)シャロン・ストーンの言葉も、彼女の凛とした生き方が感じられて、良かった。そして、ロザンナは、家庭を選び引退した伝説の女優デブラ・ウィンガーにたどり着く。彼女の言葉は非常に納得のいくものだったが、それを聞いたロザンナが同じ道を歩むとは思えなかった。このドキュメンタリーは彼女が答えを見つけるための映画ではない。自分と同じ職業をしている女性たちの、普段口にしない本音を聞き出し、そして、仕事と家庭という二つの人生における重要な因子を、どうやったら理想に近い形で実現できるかを探す映画だ。デブラ・ウィンガーはその一つの形でしかない。確かにタイトルにもつけられている通り、映画全体を統括するメタファーではあるが、決してそれが誰もが選べる答えではないことも、また提示している。40人近い女優たちが、それぞれの言葉を述べ、それを見事につなぎ合わせ、この難しい命題に対して、これだけの形を作って見せたロザンナ・アークエットという人は、本当に凄い。 |
美しすぎる・・・天井から吊された人形に突きかかるサーベルを持った男、テーブルからゆっくりと何度も落ちる壺と飛び散るミルク、巨大な図書館の中をせわしなく働く図書館員たち、浜辺の透明な立方体の中の裸女と彼女に襲いかかる男たち、そして、光の射し込む階段に拡がる限りないイメージ。もちろん、イメージの羅列が延々と続き、明確なストーリーなど存在しない。しかし、タイトルにあるとおり、この映画の中には紛れもない天使の姿を見ることが出来る。はじめに断っておくが、これから記す事柄は、すべて僕個人が感じた感想である。 ここに現れる天使は人類に救済をもたらす天使ではない。人類を破滅に追いやる神の御使いとしての天使だ。人形にサーベルで突きかかる男には、無抵抗の物を殺傷しようとする人類の姿を観た。せわしなく動き回る図書館員には、天使の出現に慌てふためいている識者たちの姿を見た。浜辺の立方体の中の女に襲いかかる男たちには、無垢な物に襲いかかる力ある者の姿を見た。そして、光差し込む階段。例えば右のシーンなど、遂に降臨した天使達の怒れる姿を観た。 これは癒やしの映画などでは断じてない。複雑な映像と気の遠くなるような緻密な編集技術によって構築された悪夢だ。暗闇の中に射し込む光なのに、こんなに畏怖の念を抱いた映像は初めてだ。 |
ギリアム監督は、「バロン」「ブラジル」「フィッシャーキング」と、運命のはかなさ、人間の力ではどうしようもない”偶然”による人生の支配を描いていると思う。その中で、この映画が今までと異なって見えるのは、その無限の時の流れからの脱出を感じさせるラストのせいだろう。これまでなら、銃弾に倒れるウィリスのカットで終わっていただろう物を、敢えて、犯人を飛行機に乗り込ませ、未来の科学者と対面させる。ウィリスが、夢の通りに凶弾で倒れることによって感じた、”時の流れを変えることは出来ない”と言う絶望感が、彼のシーンだけで覆されるのだ。さて、ウィリスについて・・・彼は、かごのような檻の中に入れられた囚人だった。何故そこに入れられていたかは定かではない。彼はその時代の科学者により、人類が捨て去った地上へと解放される。そして、地下に戻るときに、異常なほどの消毒をうける。やがて彼は地上を捨て去る原因となった鍵を握ると言われる”12モンキーズ”について調べるため、96年へとタイムスリップする。しかし、誤って90年に送られてしまった彼は、狂人扱いされ、再び異常なほどの消毒をうけ、精神病院に送られる。彼は収容されていていた人間だから、実はこの状態が普通なのだ。だが、ストゥ演じる精神科医と接することで、彼は自由に生きる権利を理解してしまう。収容されたり見はられたりすることのない生活を選択するのだ。現実の変換とも言える彼の変化は、結局、彼の真実の姿を失わせる結果となる。何故か?彼の知る真実、信じている真実が、必ずしも真実ではないと言うパラドックスを知ってしまったからである。12モンキーズがそれに当たる。それが世界を滅ぼしたという真実を持って、やってきたはずなのに実はそうではなかった。一つであるはずの真実が、一つではなかったのだ。彼は自分を見失う。 対してブラピ。彼はもっとも虚な存在でありながら、実はすべてが真実の存在だった。虚であるものが真となり、真である物が虚となる。ウィリスがやってきた過去の未来も、彼の未来なのだろうか?それは、彼の未来の過去がそうであったのと同じくらい、真実なのだろうか?その問の答えがラストシーンで示されている。ウィリスが凶弾に倒れることによって完成された、その時点までの時の流れが、覆されたのである。つまり、未来は一つじゃないし、過去も一つでは無いということだ。今までギリアムが示してきたのはただ一つの結末だった。だが、ここで示されたのは、無限の未来、無限の過去。 |
とある50年代のアメリカの炭坑町。ロケット作りに青春をかけた少年が居た・・・って、内容は”リトル・ダンサー”そっくり。作られたのはこっちの方が先なんだけどね。そこで生まれたら、炭坑を掘る仕事しかない町。その町を出ていくのは、フットボールの選手として奨学金を貰う事が出来た人だけ。ホーマーは、体も小さく、とても兄のようにフットボールの花形選手にはなれそうもない。父親と同じ炭坑で働くしかない未来に不安を感じていた。ある10月の日、ソ連が打ち上げた人工衛星”スプートニク”が夜空を横切る。町の人みんながその様子を珍しそうに見届ける。しかし、ホーマーにとって、その光景は人生を変える衝撃だった。その日から、彼は悪友たちを巻き込み、ロケット作りに没頭していく。一つしかないはずの未来。それが、ロケットを作って、科学コンクールに出ることで違う未来が開けるかも知れない。しかし、そんな息子を炭坑で働かせようとする父親との確執。炭坑夫としてのプライドに固執する父親と、夢を見続ける息子。もちろん、映画の最後には大団円となるのだが、ラストシーンで打ち上げられるロケットを、町の人たちがみんな揃って見上げるシーン。まっすぐ空に吸い込まれるように消えていくロケットに、見上げた町の人たちにも希望が溢れてきたに違いない。 |
気が付けば、子供の視線で出来事を観ている自分が居る。小さな街の知らない道。隣町の言ったことのない人の家。そこはまるで別世界で、現実から離れた世界。ジグザグ道を登っていくとそこはもう知らない世界。まだ知らない道が続いている。友だちの家にノートを返しに行くだけ。でも、もし返せなかったら友だちは退学になってしまう。しかも、お母さんにはパンを買ってこいと言われている。夜になっても見つからない友だちの家。やっとの思いで案内された家が、さっき自分が間違えた家だったときの絶望感。みんなみんな、誰もが子供の頃に経験した覚えのある不安と焦りの入り混じったあの気持ち。でも、何故かそれを楽しんでいる無責任な自分にふと気付いたりなんかして、もう子供じゃないんだなと、寂しくもなる。印象的で鮮烈に覚えている想い出じゃなくて、日常の中であったはずの、少しだけスリリングな冒険。子供の時にはそれが当たり前で、気にもしなかったはずのありふれた出来事が、こんなにも懐かしく愛おしい。大切なものをなくしていたことに気付いていなくて、それを思いもよらず、手渡されたようだった。驚きと、嬉しさと、ドキドキ。でも、その中には、不安と哀しみも混じっていたりなんかする。あの頃は、どんな困ったことがあっても、この映画のように、いつの間にか解決していたような気がするなぁ〜。 |
マイケル・ダグラスを中心とする話、キャサリン・ゼタ・ジョーンズを中心とする話、そして、ベニチオ・デル・トロを中心とする話。この映画はそのたった3人の周囲で起こる麻薬に関する出来事を一見、無造作に羅列していく。当然、大きなクライマックスも存在しないし、人の生き死にの場面でも、派手な音楽などかからない。ただ、淡々と、麻薬に関する出来事を積み重ねていくだけだ。個人の視点から描かれるため、初めのうちは、映画が何を描き出そうとしているのか、その方向性さえはっきりとは見いだせない。しかし、その3人の視点が徐々に重なりだし、気が付けば、”麻薬が往来する道=トラフィック”が完成していた。劇中で、捕らえられた麻薬売買のディーラーが言う。”麻薬戦争はもうお前らの負けで終わってるんだよ”と。そう、麻薬の流通する道はすでに完成されていて、幾ら一つの道を塞いでみたとして、別の道はいくらでも出来るようになっているんだ。 映画が始まった当初は、僕も冒頭で上げた3人の中心人物と同じく、アメリカにおける麻薬の実体など、知る由もなく、ルートさえ断ち切れば、根絶できるものだと考えていた。とんでもない。アメリカにおける麻薬は、日本で考えるほど絵空事でも何でもなく、自分の身近な人が、その魔の手に関わっている事が、日常茶飯事なのだ。しかも、恐ろしいことに、アメリカに住む人たちでさえ、自分の身近なところ麻薬が潜んでいることを自覚できていない人が多い。 冒頭の3人がそれぞれ気付いていなかったのは、自分の娘が麻薬中毒者になっている事実、自分の夫が麻薬の密売を手がけている事実、自分の仕事では麻薬の流通を止めることの出来ない事実。小さな個人の視点で描かれ、積み上げられた物語は、巨大な社会の中で蔓延し、排除することの出来ない麻薬の存在を、絶望的に描き出した。これまで、アクション映画で何度も麻薬カルテルは題材として扱われてきたが、その結末は、常に麻薬カルテルの撲滅が描かれてきた。このトラフィックと言う映画は、そんな安易な結末ははなっから用意されていない。しかし、はっきりと違う道は提示されている。最早、アメリカの社会から撲滅することなど不可能になってしまった麻薬。その絶望的な状況に対して、どうやって生き抜くのか。それは、社会がどうこうではなく、個人のあり方でしか、解決できない。この映画が、これほど大きな問題を扱っているのに、数人の個人の視点から描かれたのは、それを物語ってるのではないだろうか?この映画は、飽くまでアメリカを舞台とし、アメリカにおける麻薬の現状を描き出している。今の日本が、ここまでの状況に達するまで、後何年?いや、日本にいる僕等も、すでにこの状況にいると理解しないといけない状況にいるのかも知れない。 |
閉塞した人生から抜け出すにはどうしたらいいか?ユアン・マクレガー扮するレントンはそれまでの人生に絶望する事で、新しい未来を選んだ。絶望と失望。似て否なる言葉。彼は、これまでの人生、友人達との関わり合いの中で、失望を繰り返し続けてきた。それを感じていたのは彼だけだ。このままじゃ、永遠に失望し続ける。だが彼は、友人達と協力して掴んだ大金を前に、一つの決断をした。彼は失望することではなく、絶望を選んだのだ。望みはもう持たない。彼はそれまでの過去を振り切った。これからの人生は、ドラッグもなく、暴力もない、普通の人生。諦めのような微笑と、行くしかない道を行く、妙に決まり切った足取り。その場所に留まって、何かないかと辺りを見回し続け、その都度、失望を繰り返してきた頃とはまるで違う。彼が選んだ道は、望みを失うことのない、しかし、望みを持つこともない道。これまでの人生、これからの人生、変わったのは、望みを失い続けるか、望みを持つこともないか。どちらにしろ転がり落ちていく人生には違いない。・・・こんな絶望的な映画なのに、なんで、こんなにさばさばした気分になれるんだろうか? |
