セルロイド・クローゼット



この映画を語ると言うことは、
そのまま自分のことについて語るという事だから、
こうして文字にするのは相応な覚悟がいる。


かつて、人間は性に関して今以上に自由だった。
もちろん、人間が人間を表現するのに自由だった時代。
しかし、それは映画という多くの人の目に触れるメディアが生まれると同時に、
一度は終わりを告げた。
映画が生まれた頃に撮られた一本のフィルム。
そこには、ごく自然に抱擁する二人の男の姿が映し出されていた。
しかし、そのフィルムが多くの人の目に触れることにより、
同性愛という存在を知らなかった人にまで知らしめる結果となった。
そして、それは、自分とは異質な者を排除しようとする人たちにより、
”検閲”と言う形で”罪悪”の烙印を押されてしまう。
以降、同性愛は陰に隠れなければならない存在として、
フリークスとしての人生を運命づけられる。
それは、40年代から始まり、80年代まで約40年の間続く。


ゲイは排除すべき存在。笑すべき存在。
映画という文化によって、ゲイは隠蔽され、嘲笑される存在となった。
このドキュメンタリーのタイトル、”セルロイド・クローゼット”
セルロイドは、映画のフィルム、クローゼットはそれをしまう所。
同性愛者たちは、セルロイドのフィルムによって隠されてしまった事を暗示している。


そんな状況が変わりだしたのは70年代半ば。
それまでも暗喩的には表現され、ゲイとしてのプライドをかろうじて遺してきていた。
”ベン・ハー”然り、”スパルタカス”然り、”真夜中のカーボーイ”然りである。
それが崩れたのが”真夜中のパーティー”であった。
それまでタブーとされてきた同性愛者が主人公の映画であり、
登場人物もたった一人のヘテロを除いて全てホモセクシャルだった。
それまで陰に隠れて生き続けてきたゲイたちの隠された日常が、
人間として描かれ、ほんの少しではあるが公開された。


僕が映画を見始めたのはここ10年くらいだ。
もう、デレク・ジャーマンも登場していたし、
様々な映画で同性愛者たちが描かれてから、僕は映画を観だしたことになる。
だから、自分が彼等と同じだと気付くのも、早かったと思う。
もちろん、それを受け入れられない時期はあった。
女性と付き合っていた時もある。
でも、どうしても違和感が残り、とうとうその扉を開けたとき、
それまで自分と他人との間にあった壁までも、
無くなっているのに気付いた。


映画というメディアは、ゲイをクローゼットの中に隠した。
長い間、そのクローゼットは隙間から覗くことすら恥とされた。
今、そのクローゼットの重い扉は開かれはじめている。
しかし、僕は未だにその開かれた扉の外を見ているだけで、
クローゼットの中に留まっている。
多分、ここからこれ以上、外に踏み出すことはないだろう。
何故なら、クローゼットの外には未だ自由じゃない世界が、
存在しているからだ。
それに、今の僕には、クローゼットの中の世界だけで、
十分に生きていく事が出来るからだ。