サスペリア
演出、音楽、色彩、そして殺人の手口。ホラー映画のすべてがここにあると言ってもいい。しかし、実は、ストーリーはそれほど怖い物ではない。日本人には馴染みのない魔女物だし、謎解きも陳腐で、そこに説得力はない。(まぁ、アルジェントの映画ってほとんどがストーリーは二の次で、どれだけ主人公の少女をいたぶるかってのに執着してるんだけどね)ただ、アルジェント監督の演出、ゴブリンの音楽、ジェシカ・ハーパーの叫び声、そして、極彩色の照明の中、殺され行く人・人・人。近年のホラー映画の傑作として、”スクリーム”がある。これも、冒頭の10分間、一人の少女が殺害されるシーンは、非常に上手い構成で、非常に映画に対する期待を抱かせた。しかし、怖かったか?と聞かれると怖くないんだよな。サスペリアの冒頭10分、これほど生理的な恐怖、嫌悪、閉塞感を感じさせる見事な導入部があっただろうか?格が違うとしか言いようがない。その10分間は、まるで残虐で、しかも美しい絵画を見るようだ。死体から流れ落ちる血、様々な角度から照らし出される赤と緑の光、そして、何よりも残虐な殺され方。そのすべてが恐ろしく、美しい。この先、ホラーというジャンルで、これ以上に美しい映像を持った映画が出てくるとは到底思えない。


JSA
切なくて、哀しくて、やり切れない・・・数十メートルの橋を挟んで向かい合う北朝鮮と大韓民国の境界線。JSA(Joint Security Aria)と呼ばれる場所で起こった銃撃戦。そこで一体何が起こったのか。韓国側の将校と、北朝鮮側の将校の話は、”藪の中”よろしく、全く食い違う。そこに派遣されてきた、韓国系スイス人女性の調査官は、何とかして真相を知ろうとするが、その真相が明らかにされることは、誰も望んではいなかった・・・
僕は、日本に普通に住んで、普通に暮らしてきたと思っている。なのに、お隣の国の事なんて、何も知らないじゃないか。どこかのニュースでアンケートをやっていた。韓国と聞いて思い出すのは何?と言う質問に対して、90%以上の人が”キムチ”と答えていた。僕が真っ先に思い浮かべたのもそれだった。一番近い所にあるはずの国なのに、こんなにも無知な自分が情けない。最近になって、ようやくこうして映画や音楽など、文化が流入しはじめ、少しずつ、お隣の状況が見えてきた。音楽のこと、映画のこと、人間のこと、そして、北朝鮮とのこと。
この映画は、同じ民族でありながら、二つの国に分断され、お互いが話すことさえ許されない。その矛盾を、矛盾として言葉に出すことさえ許されない痛みを、最も哀しい手段で描いている。一つの橋を挟んでたった十数メートル先にいる同じ民族の血を持つ敵。全くの偶然から彼等は知り合い、お互いに疑念を抱きつつも、哀しいまでに堅い友情に結ばれた。しかし、張りつめた糸が切れたとき、惨劇は起こった。
そこで一体何があったのか。
二つの国の間にかかる小さな一本の橋。それは、一見お互いを繋いでいるようで、実は決して越えてはいけない溝が引かれた橋。そこで一体何があったのか。それは、その溝が埋められるまでは、決して交わしてはいけない友情。
僕は、この映画を見ながら、泣いてはいけないと思っていた。一番近い国の現実を、全く知らずにいた自分が情けなく、この映画に泣くだけの権利はないと思ったからだ。しかし、一番最後に示された、たった一つ遺された彼等の友情の痕跡。そこにあるのは、永遠に封じ込められた当たり前の絆。それがあまりに、切なく、哀しく、やりきれず、こぼれ落ちる涙を止めることは出来なかった。
僕が、生きているうちに、あの深い溝が刻まれた橋を、自由に行き来できる時が来るのだろうか?それは、ベルリンにあった壁よりも遙かに高く、遙かに深い。それでも思う。その日はそんなに遠くないと。


ジェイソンX
はっきり言って、13金シリーズで面白かったのは、1,2,7だけだ。後はホントくだらない、いや、面白かったその3つでさえ、クソみたいなスプラッターなんだよね。しかも、1作目と5作目は、本当の犯人はジェイソンじゃないし。だったらなんで、ジェイソンがこんなに人気のあるキャラクターなのか?それは、ジェイソンが生身の体のターミネーターだからだ!なんて、いきなり言い切っちゃったけど、今回の「ジェイソンX」正にそのジェイソンのキャラクターを、逆手に取った、見事な娯楽作品に仕上がっているのだ。ジェイソンが宇宙に行く!それだけで十分なのに、それ以上の仕掛けがそこかしこに用意されて、90分、全く飽きさせない。面白い。もはや、ジェイソンという存在は恐怖ではない。ターミネーターのような、畏怖の感情を抱いている。どんなにやられても、絶対に蘇る。それに理由なんて無く、完全なる殺人マシーンとして、存在し続ける。これまで、幾多のホラー映画が、ジェイソンに代わる殺人鬼を想像しようとしたが、結局越えられなかったのは、ジェイソンが、それ自体は空っぽで、感情も無い、人を殺すことに何の理由も無く、しかも不死身の殺人マシーンと言う、究極の存在だからだ。それを最大限に利用して作ったら、こんなとんでもない映画が出来た。次回作では、もう1人の殺人鬼、フレディとの対決があるという。ジェイソンが殺人マシーンなら、フレディは究極のシリアルキラー。どんな脚本が用意されて、二人の対決にどんな結末が用意されているのか、今から非常に楽しみだ。


死の王
中途半端な評価は出来ない。最狂であり、最悪な映画。月曜日、ある一人の男が自殺した。その遺書を受け取ったものが一週間の間に、次々と自殺していく。連鎖する死に関するまったく理解を超えた映像。その中で、死は唐突に訪れ、すべてを無に変えていく。先に、ストーリー的な事を書いたが、この映画には通念的なストーリーは存在しない。例えば、橋が映し出され、そこに人の名前、職業、年齢、日付がインサートされる。それだけで、そこで何があったのかを想像させてしまう。その映像に対して、恐怖はまったく浮かんでこない。しかし、静かな嫌悪感と、その映像から何も語りかけてこない無意味さが映し出されているようで、尋常じゃない不安感が胸に残る。
他人からの影響ではなく、自己発生的な感情によって、自殺する前、人を殺す前、実は人は静かに自分を捨て去っている。そこに考えなどなく、ただ、人の命がなくなるだけだ。その死には意味などなく、人を殺すことさえ、意味を持たない。この映画を見ていると、人の死というものの無意味さだけが染みてくる。
殺人鬼の心理を語るシーンがあった。”凡庸で退屈な生よりも、人々の記憶に一瞬でも残る生の方が、どれだけ意味があるか”と。実はそんな生に意味などないのに、ただそれだけのために人を殺す輩がいる。”憎しみ”という映画があった。そこに描かれていたのは、人々の記憶にも残らない死だった。じゃあ、この映画のタイトル”死の王”とはいったい何なのか?唐突に訪れる死も、覚悟を決めた自殺も、天寿を全うした死も、同じ死なら、それを司る死の王とは、いったい何なのか?
腐り落ちる死体に意味などない。この映画が語りかけてくるものなど、何もない。


シャイン
音楽の力。その限りなく人を揺り動かす力に改めて気づかせてくれた。音楽を聞いて感動するって事は、その曲の中に込められた、演奏者や作曲者の感動を共有するって事なんだろうな。”輝き”というタイトルを持つこの映画で、輝いていたのは音楽と人の心。輝きを伝えたのはヘルフゴット。彼の演奏は、聞くものの心を輝かせ、そして何よりも自分自身を輝かせるものだった。しかし、音楽にあまりに没頭してしまうがあまり、自分を見失い、輝きを失っていた時期があった。彼は弱すぎる人間だった。精神を病み、まともな生活さえ出来なくなっていた。でも、勘違いしないで欲しい。そんな精神的に障害をもっている人が奏でる音楽って事に、僕は感動したんじゃない。音楽に心を傷つけられ、しかし、音楽によって心を癒されたヘルフゴットの生涯に感動したんだ。彼の癒された心が奏でる音楽。傷ついた心では、光があたっても輝かない。彼の癒された心が、音楽を奏で、光を放つ。その光が我々の心に届き、傷ついた心を癒してくれる。音楽の癒しが氾濫する中、本当の癒しとは何かをこの映画で思い出して欲しい。


ショーシャンクの空に
何度も観て、それでも涙が流れる映画は数少ない。僕がこの映画を見て涙が出る場所は3カ所。青年が殺されるシーン、老人が首をつるシーン、そして、レッドがバスに乗って村を出ていくシーンだ。最初の二つは絶望による哀しみの涙だが、最後の一つは希望に溢れた喜びの涙だ。刑務所の中という限定された環境の中で、いくつもの人生の対比が、それぞれの人生の意味をより明確にしていく。アンディが入所してきた時の、アンディと気の弱いデブ。逮捕されたときの看守と所長。そして、レッドと首をつった老人。彼等ははそこで、究極の人生の岐路に立たされる。必死で生きるか、必死に死ぬか。時には、選択の余地のない死であったりもするが、人生における立った一度の究極の人生の岐路。アンディは実は、刑務所に入所したときに道を選択した。彼は、必死に生きる事を選んだんだ。
人間は脆い存在だ。その脆い人間が何かにしがみついてでも生きていくことを選んだ。その姿を見ている僕等にも、何より燃えがたい希望が生まれる。アンディの生きる姿を見て、レッドにも希望が生まれた。レッドが思い描いた青い海、青い空、広い世界と自由な暮らし。その通りの風景が、あのバスの行く先にはあったのだろう。あのラストシーンはレッドの想像なのかも知れない。未来に対する希望が映像として描かれただけなのかも知れない。しかし、その希望は必ず叶えられるという確信がある。それまでの人生を決して否定しない、まぶしいばかりの未来がある。
辛いとき、哀しいとき、僕等の人生にも小さな人生の岐路がたくさんある。でも、この映画で観た”希望”という物の素晴らしさが、どれだけ勇気ある一歩を踏み出す助けになることか。


少林サッカー
最高!もう映画館が興奮の坩堝と化してましたよ。まるでFIFA WORLD CUPTMに優勝したような気分ですよ。知らないし、観たこともないけど(笑)一つ一つのエピソード、登場人物に爆笑の連続。初めのうちはためらいがちに笑っていた観客も、気が付けば我慢できずに爆笑。それが、止まる事無く波状攻撃。最後の決戦ではピンチに見舞われつつも、予想もつかないギャグで興奮と笑いは最高潮に!!そして感動と大爆笑のラストシーン。笑いながら泣いたのはホントに久しぶり。余りのばかばかしさも、ここまで真剣に、ここまで完璧に、映像として突きつけられると、素直に平伏するしかないです。こんな経験、滅多に出来ませんて。この映画は出来るだけ人がたくさんいる劇場で、大騒ぎ大笑いしながら見ましょう。W杯だって、一人でテレビで見るより、大勢で見て感動を共有するものなんでしょ?知らないけど(笑)もし、この映画をレンタルするならば、間違っても一人で借りて観るなんて事しちゃだめですよ。見てない人も見た人も、皆で集まって盛り上がりましょう!文句なし。


ストレイト・ストーリー
確かに今までの映画とは違うけれども、紛れもなくリンチ。気がついたらリンチワールドが骨の髄までしみこんでいた、そんな感じ。過去の作品は、リンチ独特の味が、物語の中に微妙な違和感、異物感を与えていたが、今回はそれがシュールではあるが、完璧にストーリーにとけ込んでいる。主演のファーンズワースの、演技とは到底思えない全てを包み込むような存在感。それがリンチの作り出す映像さえも、温かい物として感じさせてくれる。双子の修理工、消火演習、闇の中から現れる子供の幻影、何度も鹿をはねてしまう女性、その鹿を裁いて食べ、角を飾り物にする、そしてトラクター。何もない、普通の現実に紛れ込んでいるこれらの物。それら全てが普通の世界を、リンチの世界に変えてしまっている。まるで魔法を観ているようだ。
リンチは、前作”ロスト・ハイウェイ”で確実に自分の道を失っていた。闇の中に続く道を、たった数メートル先までしか照らせないライトを頼りに、全速力で車を走らせようとしていた。そして、その闇の中に続く先につながっていた道、リンチがようやくたどり着いた道、それがこの映画だったのだろう。闇の中に消えていた道は明るい太陽の下で永遠に続くかのように果てしなく全てが見通せるようになり、その道を、ただ、10年以上会うことの無かった病気の兄に会うためだけに、時速8qのトラクターを走らせる。
リンチは明らかに気付いている。自分の進む道に終着点など無いと言うことに。彼が行く道は果てしなく遠く、けれど、全てが見通せる明るい道だと言うことに。ブルー・ベルベット以降、自分が作り出した狂気の世界に捕らわれ、ロスト・ハイウェイに至っては、遂に自己分裂までしてしまった。そんな彼の姿はここにはいない。ここには、道を見つけて、求める人に巡り会い、熱い涙を流している、そんな姿があるだけだ。


スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする
もう、良くも悪くも、何処からどう見てもクローネンバーグの映画。僕みたいなクローネンバーグフリークにとっては、無茶苦茶嬉しい映画なんだけど、一般の人にはどーかなー?精神をわずらった青年(レイフ・ファインズ)が、20数年ぶりに、故郷の町に帰ってくる。そこでは、昔、父親とその愛人に、母親を殺された過去があった。その地に戻ることによって、蘇ってくる過去の記憶。錯綜する蜘蛛の糸のように、曖昧な記憶が蘇って来る。そしてそれは、今の自分と、少年時代の自分を重ね合わせ、やがて、蜘蛛の巣の中心にたどり着き、すべての謎が明らかになる。記憶の底に封じ込められた真実とは・・・映画の質感としては、「デッドゾーン」に近い。寒々とした風景と、記憶をさまよい続ける主人公。デッドゾーンは未来を見ていたが、こちらは過去。しかも、精神をやんでいる男の主観から見た、曖昧すぎる過去。はっきり言って、見終わった瞬間は、???になった。しかし、語られる過去と現在が、一つ一つ繋がっていくことで、次第に、この映画の本当の謎が見えてくる。そして、あのラストシーンの意味がわかる。そして、その意味を知りえた瞬間、心の底からぞっとする。分かりにくい映画ではあるけれど、落ち着いて情報を整理すれば、分からない映画ではない。ただ、映画は主人公の記憶の錯綜を起点に描かれているため、そこに映されている映像が、すべて主人公の主観が入っているということさえ念頭においておけばいい。そうすれば、最後に訪れる「崩壊」と「再生」の瞬間が、全ての記憶の糸の中心であると、痛いほど感じることが出来るから。クローネンバーグ、久々に本領発揮な一作となった。


スモーク
人の話、実はこれほど信用のおけない物も他にないかも知れない。その話が本当かウソかは、話している本人にしか分からない物。この映画には、そんな人の話の裏のウソとホントが、いっぱい詰まっていた。
例えば黒人の少年ラシード、こいつはウソの固まりだ。話が進むに連れ、彼のウソはばれていくのだが、今一つ、どこまでがホントなのかが分からない。彼の名前とか、お金の入手先とか。でも、ウソがばれるとき、彼の場合は何故か、ばれた相手の心とつながっていく。ポールとの友達のような、親子のような関係、オーギーの店で働くときの、彼との関係。そして、蒸発していた父親の店で、息子と言うことを隠して働くという関係。一度、それらのウソはすべてひっくり返される。しかし、その後は何故か新しい関係で結ばれるのだ。
対して、オーギーの娘だという少女。彼女のウソは、すべてを断ち切ってしまう。母親が絶望してオーギーに言う。「あの娘の人生だもの・・・でも、彼女が18まで生きれると思う?」そんな母親の気持ちも全部分かっていながら、断ち切れないのは、今の生活。母親を追い出した後の表情が、あまりに切ない。
オーギーが最後に語るクリスマスストーリー。話の中にでてくるおばあちゃんは、オーギーのことを息子ではないと気付きながらも、彼を息子だと思うことにした。オーギーも、そんなおばあちゃんの気持ちに気付いて、その芝居に付き合った。真実は違うけど、おばあちゃんとオーギーは親子だという事実を演じた。そんな話を話し終えて、オーギーは、何とも言えない笑いを浮かべていた。ポールはその話の事を、"It's a good story."(=良くできた話だ)と言った。もしかしたら、オーギーの話は作り話かも知れない。でも、オーギーがおばあちゃんの息子だというウソをついたように、この話を事実として、信じてみた方が、より真実だと思ったんだろう。
ウソは、真実を見えなくしてしまう。しかし、それによって事実は変わってくる。本当は一緒に暮らしたい二組の親子、片方は絆を取り戻し、片方は、永久に失ってしまった。そして、最後に語られる、ウソかホントか分からない話の中で、ウソの親子が、心をいやしてくれた。


スリングブレイド
カールは知的障害者だ。彼は子供の頃、母親とその不倫相手を殺している。そのため、彼は病気と判断され、施設へと収容された。20年後、彼は施設を出て、フランクという少年と出会う。少年の家庭は、母親の愛人によって暴力に支配されていた。カールは物事を鋭い目で見る。機械を直すことが巧いのもそのためだ。彼は常人とは違う視点から事象を観察する。彼は少年に、昔の自分の姿を見た。殺したいほど憎む存在は、自分の母と愛人を殺したときにいなくなったと語っていた彼は、外の世界に出て、そうではないことに気付いてしまった。愛すべき人たちと、憎むべき人。彼は、憎むべき人を許すことが出来なかった。父親に会っても、自分の存在は受け入れてもらえない。その後、彼は、それまで受けることの無かった洗礼を受けた。何のために?神に認められる存在になるために?ならば何故、彼は殺人を犯したのか?少年の、母親の愛人に対する憎悪が大きくなるたびに、カールの殺意も膨れ上がっていった。少年が自分と同じ殺人を犯さないために、自分のようにならないように、友人として、そして父親として、彼はあの男を殺したのだろうか?それは、自分の父親が何もしてくれなかったことに対する復讐でもあったのかもしれない。しかし、果たしてフランク少年は、愛人を殺し、母親と自分を自由にしたカールに感謝するのだろうか?それとも憎むだろうか・・・どちらにしろ、彼の心に大きな傷が残ったのは確かだ。残酷でせつな過ぎる傷が。


戦場のピアニスト
淡々と淡々と、可能な限り事実だけをなぞるように、感情を殺して、個人の視点から戦争の真実を描き、戦争の深みへと巻き込まれていくピアニストを浮き彫りにしていく。静かなだけに、前半から中盤に至るまで、どんな不幸が彼を襲おうとも、それに涙を流す事無く、淡々と事実として受け止めていた。しかし、後半に至り、今、彼がそこにいる奇跡のような状況が、次第にはっきりしていくにつれ、それまでの一つ一つの出来事が蘇ってくる。壁を乗り越えたときに、そこに見えた景色、そしてそこを歩くシュピルマン。そのシーンは、この映画の全てを物語っている。彼が生きている奇跡、彼が感じている孤独。そして、一人のドイツ人将校と出会い、それまで抑圧されていたピアノへの思いが形となるシーン。凄い。音楽の力を感じる映画は数あれど、ここまで深い力を描ききった映画は他に類を見ないのではないだろうか?鍵盤の上をすべるように弾く指の美しさ。 抑圧された状況の中でも、いや、そういう状況だからこそ響く音があることに、感動したなぁ。もちろん戦争映画としての出来もさることながら、それ以上に、音楽の力を改めて感じることが出来た。どんな状況でも響く音がある。それを感じることが出来て、非常に救われた思いだった。


千と千尋の神隠し
映画を見る前は、僕はこの映画に対してほとんど期待をしていなかった。しかし、映画が始まって10分、その世界へ通じるトンネルをあの家族と一緒に抜けたときから、僕はこの世界の中にいた。
好奇心旺盛な両親に対して、消極的で無関心な少女・千尋。テーマパークの残骸だと思ってはしゃぐ両親の後ろをめんどくさそうについていく。この田舎町に引っ越しては来たけれど、新しい友達を作るのもめんどくさいし、何をやるにも無気力。両親が何でそんなにはしゃいでいるのか分からない。
しかし、その世界がこの世のもののための世界ではなかったから、さぁ大変。両親は、食べてはいけないものを食べてしまったために名も無いブタにされてしまい、自らも、"ハク"という少年に助けられ、湯婆婆の下で働くことになるも、名前を奪われ、"千"と名乗らされる。初めは、両親のようにブタにされたくないという思いから、"ハク"の言われるがままに行動するが、一夜明けてようやく落ち着き、今、自分が置かれている状況を把握したとき、様々な不安感が一挙に押し寄せ、溢れくる感情を止めることは出来なかった。今まで守ってくれていた両親もいない、自分独りの力で、このわけも分からない世界で働いて生きていかなくちゃいけない。そして、"千"は自分が"千尋"という名前を持つ事を強烈に意識する。何事にも無関心、無気力で、アイデンティティさえ曖昧だった少女は、今、自分が自分であること、自分が千尋であることの大事さに気付いた。
そして、彼女は何事にも真摯に接し、優しく思いやりのある心を目覚めさせていく。ヘドロに覆われた客にも精一杯の優しさで接し、"顔なし"という自分が何者かも分からない物の怪にも、彼がいるべきところを見つけ、自分を導いてくれた"ハク"が死にそうな怪我を負うと、危険も顧みずに助けようとする。もう、そこには自分勝手で無気力な少女の姿は無い。名前と共に奪われたはずの自分自身を取り戻し、自分の意志をもって行動する少女がそこにはいた。
思えば、宮崎アニメの主人公は、みな強い己を持っていた。ナウシカにしろ、紅の豚にしろ、魔女宅のキキにしろ、もののけ姫のアシタカにしろ、みんな、初めから強い意志をもち、巻き込まれた事件を解決していった。ところが、この千尋には、初め、その意思どころか、己すら曖昧だった。しかし、自分を守ってくれる父母を奪われ、自分の証明でもある名前すらも奪われそうになり、彼女は変わった。見知らぬ場所での不安は、やがて勇気と自信に変わり、人の心を信じる優しさと、己の意思を信じる強さに変わった。
今、日本の若者、いや、日本の多くの人たちが、モラトリアムの中に居続け、いつまで経っても自分を確立できないでいる。これは、そんな日本と言う国への、宮崎駿監督からのメッセージなんだろうな。


千年女優
年を経た女優の口から語られる、現実と映画の境を越えた恋物語。その物語を取材しに来た初老の男とカメラマンの若者。語り手と聞き手と記録者。語り手が語る物語に聞き手はその世界に引き込まれ、記録者がそれらを追いかけていく。女優の語る恋物語は、まだ女優になる前、その倉に一人の男をかくまったことから始まる。”いつかあの場所で逢おう”その言葉が、彼女を永遠の愛に縛る。彼に見つけてもらうために女優になり、様々な役を演じながら、相手を彼に投影していく。果たして女優が語るこの物語は狂言なのか?それとも真実の愛の物語なのか?それとも・・・?物語は次々とその舞台を変えていき、こちらの想像力を遥かに超えた次元で進んでいく。時の流れにたゆたうままに身を任せ、物語の深みにはまっていく。そして、行き着いた先。一つの鍵。開いた過去。そして真実。本当の気持ち。時を超えた恋の本当の姿。開いた扉から溢れ出してくる数々の過去がラストシーンに結実する。見事。


そして人生は続く
前作”友だちの家はどこ?”のロケ地が大震災に見舞われた。監督は、主役の男の子の消息を求めて、再びその地を訪れ、彼を捜すが・・・。虚実入り混じったセミ・ドキュメント的な演出が映画としての枠を超えてしまっている。
ああ、それでもこの映画を見終わって抱く想いは途轍もない幸福感。もちろん、僕も一応、阪神大震災体験者だから、被災地の大変さは痛いくらいよく分かる。だからこそ、人々の優しさとか、心配とか、哀しみとか、普通の人よりも伝わってるんだと思う。でも、監督と彼の息子が、被災地での道中、土地の人々との触れ合いによって、抱く想いを変えていく様子は誰もが感じることだと思う。
途中、男に道を聞き、車で急な坂を上ろうとするが上り切れない。と、さっき道を聞いた男が、重い荷物を担いで坂を上り追い越していこうとする。車は諦めて引き返そうとするが、思い直し、再び坂を上り、やっとの思いで登り切る。そして、荷物を持った男に追いつき、誘って車に乗せ入れ、当初の目的である男の子を捜し見つけることなく、映画はそこで幕を閉じる。
その地でこれからも行きようと思えばこそ、死んだ者を悔やんでばかりはいられない。それでも人生は続いていくんだから。どうしても曲げることの出来ない厳しくも厳かな現実が、あのラストシーンで身に染みてくる。でも、きっとその道はどこかに続いている事を何気なく宣言されているようで、凄く嬉しい。監督も、初めはあの子役を探し出すために車を急がせていたが、被災地を訪れ、人々の話に触れていくごとに、それ以上に重要なことに気付いた。車のスピードを落とし、ジグザグ道をゆっくりと走りだした。生きていれば、どんなに回り道をしてもいつかはたどり着く。そんな想いがこんなにはっきりと伝わってくるなんて、本当に奇跡のようだった。