M.バタフライ



僕は、クローネンバーグの映画が好きだ。
彼の映画は、その映像から醸し出される内臓感覚で語られることが多い。
劇場デビュー作の”シーバーズ”から、大ヒット作”ザ・フライ”、
そして、”戦慄の絆””裸のランチ”と、
彼の作り出す映像からあふれ出る内臓感覚は、作品を重ねるごとに、
形を変えつつも、無くなることはなかった。


この”M.バタフライ”という女装の男性に恋をした男の悲劇を描いたラブストーリーに、
内臓感覚と呼ばれる映像の直接的な露出はない。
しかし、むしろ腹の上から感じる内臓の見えない気味悪さを感じてしまうのだ。
それは、デビッド・リンチが”ワイルド・アット・ハート”で見せたような
これ見よがしな狂気ではない。
ジェレミー・アイアンズの内に秘められた狂気だ。
それは、ラストの自刃のシーンで怒りと哀しみ、苦しみと歓びと共に噴出する。
静かなシーンではあるが、蝶々夫人は、ジョン・ローンではなく、
ジェレミー・アイアンズが演じていた事を告げ、
それまでの激しかった愛の虚しさを、痛いほど画面に映し出す。
途中で、少しずつ織り込まれるジョン・ローンの顔は、
余りにも無表情なのに、その目だけは愛に溢れた涙で一杯に濡れているのが、
二人の愛の深さを感じさせる。


東洋と西洋の隔たり。
異なる文化を持つ人種が交わると、意識の差によって、
いろいろな幻想が見えてくるのかも知れない。
男が女に見えることも、女が醜く見えることも。
肌を見せないエロティシズムに囚われてしまったアイアンズにとって、
幻は現実となり、それ以前に信じていた現実が虚構となる。
しかし、その逆転の仮面が、ジョン・ローンが実は男だったという事実と共に、
唐突に剥がされてしまうと、
現実と化していた幻が、自らの体に乗り移り、
現実であったはずの自らの体が虚構の中に引きずり込まれてしまった。
逆に、虚像を作ってきたジョン・ローンは、元の男に戻り、別れるだけだ。
ラストシーンで、アイアンズが演じる京劇は、現実を引き裂かれ、
虚構に引き込まれてしまった自らの体への復讐だったのではないだろうか?


失ってしまった虚像を取り戻すためには、
自分の体に乗り移らせて、その命を絶つしか方法がなかったのだ。