
このまま何時間でもこの映画の雰囲気に浸っていたい。まるで夢を見ているような、それもとびっきり素晴らしい夢を見ていたような気がする。あの柔らかな人間たちに、少しほろ苦いストーリーに、乾いた光に溢れた映像がマッチして、とても幸せ。何者でも許容してしまう、世界中の人が集うことが出来る楽園に生まれ変わった”バグダッド・カフェ”アレは本当にMagic。お互いになくてはならない人を見つけだしたこととか、人生の辛さとかほろ苦さとか、突然の別れとか、再会の幸せとか、全てが魔法のように降りてくる。時々はっとする映像や台詞が、心をきゅっと締め付けるけど、だけど幸せ。 この映画のしみじみとした雰囲気には、”おかしさ”と”哀しさ”が同居してる。例えば、入れ墨を入れる女の人がただ一人あの場所から去って行くけど、去っていくときに、”仲が良すぎる”って言う。この映画にたった一つシミのように残る。でも、人生ってそうだよね。みんながみんな幸せになれるって事はないのかもしれない。その人にとって、孤独な生活を営むのが幸せなのかもしれない。人が望む幸せは全て同じじゃない。ただ、ブレンダとジャスミンの望む幸せが同じだったんだ。ラスト、彼女たちは二人で一人の存在になる。 そして思う。自分の楽園を見つけたいと・・・ |
毎回言ってるけど、コーエン兄弟の映画にはそこはかとない哀愁が漂い続けている。今回の映画はいつもにも増してその哀愁度は高い。なんといっても、ビリー・ボブ・ソーントンなんて、しかめっ面の男が人生転がり落ちていくんだからたまらない。原題はThe man who was'nt there、そこにいない男。実際、ソーントン扮する散髪屋は、まるでそこにいないかのような影の薄さ。彼が犯した殺人でさえ、彼が犯したことにならず、実際には存在しない男のせいにされてしまう。ようやく見つけた生きがいも、いとも簡単に壊れてしまう。そして訪れた破局。しかし、それははじめて彼自身に向けられた裁きだった。その切なさ、痛さ、気味が悪いくらいだ。といいつつも、いつものコーエン兄弟の映画ほど評価を高くしていない。なんて言うか、巧すぎて鼻につく。天邪鬼な意見なんだけど、脚本が余りに巧すぎて、演出にキレがありすぎて隙がない。この映画を見て、いろんなことを考える逃げ道がないんだよな。贅沢な話なんだけどね。ここまで凄い映画を見せ付けられておきながら・・・ |
僕の親父もレストランをやっていて、僕はそのレストランを継がなかった。いつか、僕の親父が店を閉めるとき、やっぱりこの映画に出てくるシェフの息子と同じような想いを抱くのだろうか。レストランの明かりが消えた瞬間、僕はそのレストランの最後の一日を見ていただけのはずなのに、すべての歴史を共有したかのような錯覚に陥った。いろんな人間が集い、楽しみ、味わい、怒り、悲しみ、愛を感じあった場所。その中に、僕もいたような気がしたんだ。そのレストランの明かりが消えた瞬間、かけがえのない大切なものを失ったような気がした。 ある特定の場所だけに集う、そこでしか会えない友達。しかし、その場所がなくなってしまえば、その友達と会う理由が希薄になってしまう。例えば、卒業、引越し、就職・・・人は拠点とする場所が変わることによって、周囲に集う人も変わってしまう。同じ場所にいたとしても、集う場所がなくなってしまえば、二度と同じ友達は集えない。 あのレストランに集った人たちも、そういう思いを一人一人が抱いていたんだと思う。嫌がる彼女を無理やり連れてきた男がいた。彼は、初めは、最後の日だからと彼女を連れてきただけだったのかもしれない。しかし、自分にとって、そこがどれだけ意味のある場所だったのか、無くして初めて分かった。すべての客が外に出て、降り積もった雪の中、雪合戦が始まった。しかし、レストランの明かりが消えたとき、すべては過去になってしまった。二度とあの場所に皆が集い、語り合うことはない。その瞬間、すべてのことは思い出となり、一人一人の胸の中にしか存在し得ないものとなる。 いつか僕にも訪れるその瞬間。いったい僕は、親父になんて言うんだろうか。 |
田荘荘監督の「青い凧」以来、10年ぶりの新作は、「小城之春」という中国の古典映画のリメイク。夫が病気で、愛も冷えた夫婦のところへ、夫の古い友人が訪ねてくる。しかしその男は、妻の初恋の男だった・・・という非常に単純な話なんだが、これがもう、深い深い。とにかく、ほとんどの話がこの3人と、夫の幼い妹、そして使用人の5人だけしか登場せず、密室劇のように話は進行する。思いがけない男の登場に、妻は惑い、男も惑い、そして、その二人の想いに気付いた夫も惑いはじめる。妻と男は、昔お互いが抱いた恋心が再び湧き上がるのを感じる。しかし決して、その想いが結ばれるはずがないのを知っている。これが「マディソン郡の橋」なら、ちゃんとやることやっちゃうんだけど、そこはアジアの秘めたる恋情。その想いのすれ違いは見ているだけで鳥肌が立つほど。田荘荘監督の息を飲むほどに美しい映像と、押さえた演出。ほとんどBGMさえかからず、三人の言葉だけが響く。この監督、10年も映画を撮れなかったのは、「青い凧」が中国の文化大革命の描いてはいけない部分に触れてしまったために、中国当局から、映画の撮影を禁止されてしまったからだが、その10年間の想いを、決して大作で噴出させることなく、これほど、穏やかで、それでいて激しい恋愛模様を描くとは。素晴らしい一本でした。
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映画を撮りたいと思ってる人必見!!いや、映画を愛する人すべてに送る大爆笑の超傑作!スティーブ・マーティンの映画はこれまで全部見てきた。彼の持ち味は何といっても、”人の良さそうな顔”と”でも裏で何を考えてるか分からない顔”だ。この映画、さすが本人の脚本だけあって、自らの持ち味が最高に活かされてるね。有名俳優を雇うだけの金が無いからって、アポ無しで彼を画面の中に無理矢理映しちゃうんだもん。しかもその一つ一つのシーンがこれでもか!ってくらい自然で完璧。有名俳優を演じるエディ・マーフィーもいつになく抑えた演技で、場を引き立てる。くぅ〜、いいなぁ〜!!こんな映画なら僕も撮ってみたい!!たとえ、主演男優に許可無しで撮影してようが、この映画を作ってるのは他の誰でもない自分。そこにあるのは映画を作ることへの情熱だけ。これは、スティーブ・マーティン版”エド・ウッド”だな。映画が好きで好きでたまらない、出来上がった映画は駄作かも知れないけれど、映画への愛が溢れている。この映画へのスティーブ・マーティンの愛ももちろん本物だ。 |
娯楽に徹していた前作の「未来は今」に比べて、今回は見事なまでに”人間”を描いている。真っ白な雪に覆われ、荒涼とした街に、点々と付けられていく赤い染み。普通でいるために、どれだけ努力が必要か、平凡でいることが、どれだけ幸せか、一時も狂うことなく、人生の歯車を廻し続けることが、どれだけ奇跡的なことか。たった一つの狂った歯車が、真っ白な街に軋みを生じさせ、気が付けば全部が狂っていた。それは、決して元に戻ることはなく、狂気の渦は全てを飲み込もうとする。”ファーゴ”と言う地名に込められた意味。閉鎖的で、雪に閉ざされ、ただ広いだけのこの”FARGO”と言う場所。この街には、遠い地に行きたいと願う人々が集い、そして、その人生を狂わせていく。ファーゴと言う街で起こった誘拐事件。小さな一つの嘘が、この街に紛れ込んだ立った一つの狂った歯車だった。狂った歯車は、普通でいようと努力している人たちを歪ませ、関わった歯車は全て取り除かれてしまった。事件が終わった後は、元の街。平凡な生活。ラストで語られる3¢切手の話は、平凡な生活の象徴だ。あの先、その3¢切手が、どんな人生に影響を与える歯車になだろうか?人が残していく、一つ一つの出来事は、常に他の人や自分の歯車となり、多かれ少なかれ、影響を及ぼしていく。その歯車が連なる先は、ファーゴ。遙か彼方に存在する地。 |
自分でも気付くことなく、常に人よりも先を駆け抜けていったF.ガンプの生活は、今、こうして生きていることに不思議さを感じている僕にとって、驚きであり、憧れであり、尊敬できる心の持ち主だった。人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで、中からどんなチョコレートが出てくるか分からない。人から与えられたチョコレートでも、自分の手で箱を開ける勇気が必要なんだ。箱を開けてみて、ガッカリすることもあるかも知れない。でも、食べてみなけりゃどんな味かも分からない。人生は、やってみなくちゃ分からないんだよ。 丁度この映画を見た頃、大学を卒業する間際で、これから社会に出る直前という時期だった。不安と期待が入り混じり、自分は本当に社会に出てやっていけるのか?そんな不安で一杯だった。でも、人生は開けてみなくちゃ分からない。そこから出てくるのは、甘いかも知れないし、苦いかも知れないけど、チョコレートだ。 ガンプが次々と開けていった箱の中には、いろんな人の想いが詰まっていた。母親の愛、ババの夢、少尉の苦しみ、そして、ジェニーの心。それぞれに違う味があり、ガンプはそれを食べ、しっかりと胸に抱きながら、アメリカという国を走り続けた。 誰よりも愛したジェニーの死に、墓前で涙するシーン。初めて見せた涙は哀しくもあるが、ガンプの心が満ちていくようで、彼の想いが全て報われた気がした。彼の心は母親の心であり、彼の生への目的は、ジェニーへの想いだった。それが全て報われたとき、彼は走るのを止め、息子にバトンを渡した。 彼の元に降りてきた一枚の白い羽根は、そんな彼の心の象徴。風に運ばれどこを漂うか分からないけれども、行き着く先は間違いなくガンプの所だ。そして、バスに乗っていく息子を見送った後、再び羽根は彼の元から飛び去っていく。次のガンプの人生の始まりを観に行くかのように・・・ |
これは、邦題悪すぎっすよー。もったいねー。もっと、興味を引くタイトルをつけて、分かりやすいチラシだったら、もっと早い時期に見に行って、もっといろんな人に薦めていたのに!原題は「The Mothman Prophecies」ってことで、直訳するなら、「蛾男の予言」ですか。結構、こっちの方が、なんだろ?って興味が湧くのでは??不幸な事故の前に不特定の人の前に姿を現し、予言を与える正体不明の蛾の姿をした人間に似た"それ"。"それ"が何なのかについては、ある程度の考察はなされるものの、明確な答えは得られない。3次元の存在である我々には断片しか見えない、恐らく4次元の存在ではないか?と勝手に想像してみたが、(縦・横・高さの世界にいる我々に、+時間の世界である4次元にいるなら、予言することも可能だと思われるから。しかも、それらは、もともと3次元に棲む人間だった?)それが正しいかどうかを確認する術はない。それに、そんなことを追求するよりも、与えられた予言に目を向けるべき。リチャード・ギア扮する新聞記者は、恐らく蛾男の姿を見て死んだ妻のトラウマに囚われ、与えられる予言の数々と妻の幻影を重ね続ける。正体不明のものへの恐れ、予言が成就するかもしれない焦り、大事な人を無くしたくない悲しみ、それらが渾然一体となって、画面を埋め尽くしている。クライマックスのカタストロフには、鳥肌が立ちっぱなし。悪魔でも殺人鬼でも幽霊でもない、それでいてちゃんとホラー映画になっている。映画でこれだけの情報量なら、原作はどんなに面白いんだろう?って読んでみたら、これが全然違った。原作はUFOの目撃情報に関する報告書形式のレポートが延々と綴られていて、そこから、作者に降りかかる不可解な出来事へとつなげていくと言う内容。これからこの映画が出来るってのも凄すぎ。
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陳凱歌監督の映画って、実は「覇王別姫」しか見てなかったりする。あの映画は静かながら、沈み込むような激情を感じさせてくれて、素晴らしかった。で、この作品、中国の田舎町に住むバイオリンの天才少年と父親が、北京にやってくる。静かな田舎町とは違い、資本主義が根付き、激しい競争社会は、少年に少なからず影響を与えるが、彼の奏でるバイオリンの音色は、人々の心に響いていた。そして、彼は世界にはばたくコンクールへの出場を手にするが、それはそれまで共に暮らし、彼を支えてくれた父親との別れを意味していた・・・。音楽は心で奏でるもの。金のため、名声のために奏でられる音に、感動はない。この少年から奏でられる音には常に心がある。そこには何の打算もなく、計算もない。母の形見であるバイオリンを奏で、その音を鳴らしたい。そんな音楽の初期衝動を持ち続けられる奇跡。ラストシーンでの演奏は、涙なくしては見られない。それまで出会った人々への感謝、そしてこれから進む自分の道をも、あの演奏だけで奏で尽くしている。彼が通ってきた道、そしてこれから進む道が、あの音からはっきりと見える。それは、そのまま市場経済化が進み、急速に変貌しようとしている中国という国の中で、これからの若者たちが進む道と、進む道すらもてなかった父親たちが持つ子供たちへの希望を見ているようだった。ちなみにこの少年、本当にバイオリン弾いているそうです。凄すぎ。
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どうしてぼのぼのには、僕等が日頃疑問に思わなきゃいけないことなんだけど、気付かずにいることに気付いてくれて、それを素直に聞いてくれるんだろう?しかも、どうしてスナドリネコや、ヒグマの大将たちは、その疑問に対してちゃんと説明を考えてくれるんだろう。生き物はみんな、生まれてきて、するべき事など何もなくただ生きていくうちに経験することを見に来てるんだ。それは凄く簡単なこと。見ることによって、確かに何かが変わっていくのを見る。でも、それを意識して見て、そして生きている人なんていないんだよな。楽しいことが何時か終わるのは、苦しいことも何時か終わるためだなんて考えたこともなかった。苦しいことも哀しいことも楽しいことも嬉しいことも、何時か全てを忘れて、次の自分に目を向けることが出来る。人はしなくてはならないことなんて何もないんだから、とにかくたくさんのことを見て・・・それを繰り返し続ける。繰り返していても、次はきっと違うことを見られるし、何かが変わってる。あの”うしさん”の足に付いたアライグマ君の鼻くそのように、いつも全く同じだと思われる事が、実は全然同じじゃないんだよね。今生きていること。それは、新しい明日を生きて、新しい明日を見ようって希望が新しい楽しみになったようで嬉しい。 |
