Impressions




セバスチャン | スロウン・スクエア | ジュビリー | テンペスト
ブロークン・イングリッシュ | イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・サン | TGサイキック・ラリー・イン・ヘブン
パイレイトテープ | ドリーム・マシーン | エンジェリック・カンヴァセーション
カラヴァッジオ | ラスト・オブ・イングランド | ウォー・レクイエム | ザ・ガーデン
エドワードU | ヴィトゲンシュタイン | BLUE | グリッター・バグ



セバスチャン
この映画を初めて見たのは95年の事。まだ、学生の頃で、ゲイとしてのアイデンティティを確立してなかった頃だった。そんな当時の感想をそのまま書き写したいと思う。
”もしかすると、僕はその難解な心理の層にに騙されているのかも知れない。僕は、まだ人生でこんな愛を体験していない。肉体的ではない、飽くまで精神的な、神を崇めるかのような愛。相手を決して肉体的に受け入れることはないが、反発し、そして、それによって返ってくる苦痛が更に自分を高めるなんて信じられないし、耐え難い。
二人の男の肉体関係が赤裸々に描かれる一方で、キリスト教の殉教者でありながら、同性愛者である二人の精神を認め合う関係が理解を超える。
僕はまだデレク・ジャーマンの世界に入れない。とてもじゃないが理解を超えている。これを観て、僕は一体どうやって恋をしろというのか。”
これが当時の僕の思いだ。あれから6年立ち、いろんな恋も知り、肉体的にも精神的にもいろんな経験をしてきた。今、僕がこの映画に対して、当時のような想いを抱くことはない。デレク・ジャーマンがこの映画を作ったのが29歳。僕は今年28歳になる。セバスチャンは、ひとりの男を狂おしく愛するが故に、彼からの求愛を拒み続け、それによってもたらされる悲劇がやがて、彼にとっての悦びと変わる様を描いている。そんな感情も理解できるようになった。もう、騙されてるなんて思わない。
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スロウン・スクエア
当時のデレクのアトリエに訪れた人々を、固定されたカメラが何分か置きにシャッターが切られ、その部屋に出入りする男たちがめまぐるしく映し出される。そこにある(あった)物、、そこにいる(いた)人。失われたときのかけらがそこに閉じ込められているような映像だ。
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ジュビリー JUBILEE
ジャーマンは大英帝国の現状を嘆いているのではない。もはや見限っているのではないだろうか?イギリスと言う母国に対して注ぐ眼差しは、難病にかかって救うことの出来ない子供を見るようだ。そこにはジャーマンの諦観が滲み出ている。諦めは彼の弱さであり、彼の作り出す映像表現の強さでもある。彼は、イギリスの現状を恐れながらも、勇気を持って告発し、自らの作り出す映像詩として遺していく。ジュビリーと言う映画は、後に”ラスト・オブ・イングランド”へと繋がる英国への諦観から撮られた映画であり、ストーリー性を重視した劇映画である。16世紀の大英帝国女王が、20世紀のイギリスを見る。その世界はすでに終末を迎えた後の混沌とした世界だ。故に、何が起ころうとも何も変わらないし、そこから産み出される物にも何の意味も希望もない。誰が何をしようと、例え今までの大英帝国の歴史を新たに書き換えようとしても、そこには何の意味もない世界なんだ。子供も作れない。後はただ滅び行くのみのこの世界を見、女王は何を思ったのだろう?そして、彼女にこの世界を見せた天使(?)は本当は何を見せたかったのだろう?悪魔は、自分たちの国を神の軍団である天使に乗っ取られた。するとあの世界は、全てが逆転した普通であるべき姿なのか?男女の逆転、性交渉の否定、文化の空洞化。正義の意味さえも分からず、花も咲かないこの世界に、何を求めて彼女たちは生き、反抗し、そして流れていくのだろうか。
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テンペスト THE TEMPEST
ジャーマンとテンペスト。シェークスピアの戯曲の中でも、最も虚しい復讐劇であるこの物語をジャーマンが映画化したのは非常に分かるような気がする。魔術師プロスペローの復讐は、自分と娘を孤島に追いやった国王と王子、実の弟らの乗った船を難破させることから始まる。そして、自分の娘と王子が恋に落ちるようにし向け、最後には水夫らが踊り、歓喜の歌が高らかに歌われる婚礼の儀を迎える。ああ、しかし、それら全てはプロスペローが観た幻でしかないのか。直前の婚礼のシーンが、あまりに歓喜に満ちていただけにあのラストシーンは、祭りの後の静けさが痛すぎる。
プロスペローには善の精霊であるエアリアルと、悪の魔女の息子であるキャリバンという、相反する属性を持つ家来がいる。彼等はどちらもプロスペローの支配から逃れて自由になりたいと願っている。そして、彼等を家来としているプロスペローもまた、自分を陥れた者たちへの復讐と、許しの感情の間で揺れ動く。ジャーマンにとって、このテンペストという物語は、自信の葛藤を表現するに最適な原作だったと思われる。善と悪、復讐と許し、歓喜と孤独。 相反するその感情を映像化することで、自信の葛藤をも昇華させたかったのではないだろうか?
それにしても、この映画の映像表現、光の織りなす影は息をのむほど美しい。元々画家であったジャーマンの才能がこの物語によって、無限大に創造力を膨らませることが出来たかのような、圧倒的な映像だ。波間から漂着したイギリス王子が全裸で上陸してくるシーン、プロスペローの娘ミランダが王子に寄り添うシーン、精霊エアリアルがガラスの向こうでプロスペローに許しをこうシーン。ジャーマンの映像表現が最初に開花した映画だと思う。
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ブロークン・イングリッシュ
ミック・ジャガーの恋人だったMARIENNE FAITHFULLという女性歌手のビデオクリップ。"WITCHES SONG" "BROKEN ENGLISH" "BALLAD OF LUCY JORDAN"の3曲をイギリスロンドンを舞台に綴る。70年代のポップロックに退廃的なロンドンの風景が重なる。
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イン・ザ・シャドウ・オブ・ザ・サン
70年代から撮り続けられていた8ミリ、そしてジャーマンが美術を担当したケン・ラッセルの「肉体の悪魔」の映像などが幾重にも織り込まれるイメージフィルム。音楽はスロッピング・グリッスルが担当。その映像は、もはや動き音楽のついた絵画としか表現できない域に達している。これは映画とはいえない。見たまま感じたまま、それを心に留めておけば、それでいいはず。
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TGサイキック・ラリー・イン・ヘブン
光と闇の中に浮かび上がる男の影。80年代初期のノイズミュージックに彩られながら、幻想と言うにはあまりに簡単すぎる煽情的な10分間のマインドトリップ映像。音楽、というより音を担当するのは"イン・ザ・シャドウ・オブ・サン"と同じくスロッビング・グリッスル。
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パイレイトテープ
ウィリアム・S・バロウズが、ロンドンの街を徘徊する。コマ落としで撮影された映像に、延々と"Boy,school,shower,swiming"という言葉が重なり続ける。これも、音楽はスロッビング・グリッスル。
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ドリームマシーン
男が幻燈器の中を覗き込むと、穏やかなピアノの音色を伴奏に、裸の男と服を着た男が殺風景な部屋の中で戯れている。やがて場面は変わり、音の洪水と光の洪水、映し出される男の顔と肉体。肉欲の宴が始まる。そして次に映し出されるのは、上半身裸で横たわる美青年。羽が舞い、アリアが流れる。彼の背中には羽根の抜けた翼。舞い散る羽根は彼自身のもの。それでも美しく笑う彼の笑顔に何を見ればいいのか。最後は、たくましい男の肉体、切り裂かれる獣、奇怪な仮面、キッス、サック、ファック。混沌の世界。
素晴らしいものと、とんでもなくえげつないものと、今まで見たことが無いほど美しいものと。それらのイメージが新たなるイメージを作り、絡み合い、暴走していく。画面から感じられるのは圧倒的な威圧感。ノイズ交じりのサンプリングされた音の洪水に、現実をはるかに超越した映像が、見るものを夢の世界へと連れさる。自我を失い、映像に思考を支配される感覚。この機械によって作り出される夢は危険すぎる。
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エンジェリック・カンヴァセーション
ジャーマン曰く、この映画は"散歩の映画"なんだそうだ。物語などまるでなく、抽象的な映像と、抽象的な音楽と、シェイクスピアのソネットで構成された夢幻の中をさまよう散歩。何も考えなくていい。ただ目の前で繰り広げられる映像を感じるままに見ればいい。素晴らしいとか、美しいとか、そういった基本的な概念さえ、この映像の前では色あせてしまう。映像を見続けることによって頭の中は次第に真っ白になり、体さえ存在しないような浮遊感に捉われる。まるで天使たちの会話が、耳元で優しく囁かれているような、しかし、意味がわからなくて、どうしようもなく不安な気持ち。そこは愛で満ち満ちているのに、1人だけ満たされず、愛に飢えた気持ちにさせる。その愛が欲しい。キスが欲しい。そのぬくもりを感じたい。しかし聞こえてくるのは天使たちの会話だけ。
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カラヴァッジオ
この映画は、ジャーマンの映画の中でも最も感想を言葉に出来ない。孤高の画家カラヴァッジオが死の床に就き、そこで見た彼の人生の走馬燈。幼い頃から才能に溢れ、貴族達のお付きの画家として栄光と富を手にするが、正しい愛だけは手に入れることが出来なかった。カラヴァッジオを惑わし、破滅させる青年ボヌッチオ。彼の美しさはたとえぼろを纏っていようが、隠しようがないほど輝いていた。逞しい肉体、端正な顔。しかし、彼の愛人である女性レナの存在が、彼等の間を揺さぶり、さらなる破滅へと誘う事になる。3人のそれぞれの破滅は、エゴに満ちた感情からくる自業自得以外の何者でもない。最期の時を迎えたカラヴァッジオに去来するのは、憎しみと哀しみに満ちた日々の記憶のみ。愛は千の欠片と砕け散り、記憶の中からこぼれ落ちてしまった。才能と美貌に恵まれ、富と名声を手にした男は、最期の時まで幸せを知らずに逝った。言葉にするとこんなに陳腐になってしまうが、ジャーマンの描くカラヴァッジオの生涯は、哀しくも美しく見えるから不思議だ。そう、まるでカラヴァッジオが描いた絵画を見るように・・・
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ラスト・オブ・イングランド
現在・過去・未来。この映画には3つの映像が幾重にも織りこまれ、それらが微妙にシンクロを繰り返しながら、”ラスト・オブ・イングランド(大英帝国の最期)”を形成していく。
過去のシークエンス。これはジャーマン自身の幼少の頃の想い出。両親によって綴られたホームムービーがそれに当たる。花が咲き、母は笑い、子供たちは戯れる。それを見つめる視線は暖かく、しかし、それが過去の物だという思念に満ちている。
現在のシークエンスは、花嫁と愛する男の物語。恋人の死は花嫁のウェディングドレスを引き裂き、その哀しみはモノクロームの映像から極彩色の映像へと変化するに連れ、身を引き裂くほどの切実さを伴う。最期に向かうイギリスの現状が、浮き彫りにされていく。
そして未来。廃墟と化した町と、そこに在る人々。この映画で最も美しく、最も残酷だと感じたシーンがある。ユニオンジャックの上で、裸の青年が、マスクを被り軍服に身を包んだ男を愛撫するシーンだ。これはラブシーンではない。そこにあるのは愛ではなく絶望。快楽ではなく服従。複雑に入り組んだ迷路のような映像の中に見えてくるのは、その二つの感情だけだ。映画のラスト、日没と共に一艘の舟が何処への海へと漕ぎ出していく。その先に何があるのか分からない。大英帝国の最期、世界の終末、誰かに支配されたこの未来の中で、人々は幸せだったはずの過去を思い出すしかない。明日は見えない。其処にいるのは、ただ泣きじゃくるしかない人たちだ。
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ウォー・レクイエム
ようやく日本でも初公開されたジャーマン幻のフィルム。ラスト・オブ・イングランドとザ・ガーデンの間に製作された、ジャーマンによる戦争鎮魂歌。絶望で塗り固められたラストオブ・・・から、自身の住むタンジェネスの庭を舞台にした宗教劇を軸にしたザ・ガーデン。ふたつの作品は余りに落差が激しい。その間に位置するこの映画があるからこそ、二つの映画は繋がってくるということが、今回初めて分かった。エイズ、ゲイバッシング、自身の映画に対する批評、その全てと戦い続けてきたジャーマン。しかし闘えば闘うほど、その卑しさに身を焦がし、彼はラスト・オブ・・・でその卑しさを画面に焼き付けた。そしてウォーレクイエムが生まれた。鎮魂歌以外の何者でもないこの映画は、他の誰でもなく、ジャーマンが自分のために作った鎮魂歌だ。しかし、それは、同時に戦争に関わる全ての人たちにも共通して理解できるはずだ。この映画を作ることによって、ジャーマンはあらゆるものと闘うことに対する呪縛から解き放たれたのだろう。映画の内容よりも、この映画を作ったことが重要なのだ。
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ザ・ガーデン
デレク・ジャーマンがその晩年を過ごしたダンジェネスの庭(TOPページに使用させてもらったあの庭))を舞台に繰り広げられる「エデンの園」「天国」「パラダイス」などをイメージした象徴的な作品。明確なストーリーはなく、それらの断片的なイメージが羅列されていく。そこから感じられるのは、ジャーマンの作り上げた庭への深い愛着と、その庭のある家の裏にある原発への恐れ。庭は愛し合うふたりの男に姿を変え、あたかもキリストの生涯を思わせる殉教の過程を経る。原発は、映画に存在する不安な要素すべて。海の上で浮かぶベットで眠る男と、彼の周りを取り囲む上半身裸の男女。ダンジェネスの庭で産まれた赤ん坊を抱くティルダ・スウィントンと、その周りから執拗にフラッシュをたくカメラマンたち。老人たちが集う浴場に、二人不安げに佇むゲイのカップル。全てのイメージは、聖書のイメージから引用されているのだろうが、その解釈は余りに衝撃的で難解だ。一つ一つのシーンからインスパイアされる感情、これは文明批判なのか?恐らく、それも含まれているのだろう。自然と文明。映画という文明を利用して自分の愛したダンジェネスの庭を描かなくてはいけない矛盾。ジャーマンはむしろそれを楽しんでいるようにさえ見える。美しい自然と、無機質な文明。そこで繰り広げられるのは、聖なる者どもと、邪なる者どもの宴なのかもしれない。
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エドワードU
ジャーマンだからこそ描けた大スキャンダルだ。イギリスの王として即位したエドワードU世と、寵臣ガヴェストンとの溢れるほどに滲み出す愛の物語だ。大胆でいて繊細、美しく在りながら残酷。衣装や舞台には時代設定はまるでなく、何時の時代でも何処の世界でもない話の様にも見える。その感覚が、この映画の中に潜む愛憎をむき出しにする。
何故、デレク・ジャーマンがフィルムに写し取る青年たちはこれほど美しいのだろうか?実在することすら不思議。その姿はギリシャ彫刻さえ思わせる。その完璧さが故、周囲の人間の心の醜さが際だって醜悪に目に映るのだろう。極限まで簡素化された舞台が、更にその感情を増幅させる。ジャーマンの映像の美しさが劇映画としてこれほどまで開花した映画は他に無い。冒頭で絡み合う水兵にさえ美しさを感じさせてしまう。
イギリスの負の歴史であるこの物語で、ここまであからさまに美醜を追求して描けるジャーマン。彼は、故郷であるイギリスを、恨みながら愛しているのだろうか。
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ヴィトゲンシュタイン
20世紀最大の哲学家ヴィトゲンシュタインの生涯をジャーマンが相変わらずの独特の解釈で映像化。そのアプローチは大胆かつ難解。もうここまで来ると、意味を分かろうとする事さえ放棄したくなるほど。全てのシーンには必要最小限の情報しかなく、見る側の想像に頼りきってる。そこに更に哲学の言葉の世界を解き明かしてい・・・るらしいのだが、理解の範疇を超えている。人間は言葉を得て、表現する方法を得た。しかし、それによって、その"物"という絶対の存在以外の"行動"や"助詞""副詞"という本来無かったものまで出来てしまった。その結果、人間は思想を持ち、哲学を作った。しかし、哲学で言葉を語り続けたヴィトゲンシュタインが死ぬとき、その周りに言葉は無く、彼の心の中は永久に語られることは無かった。
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BLUE

"感性の血の色はブルー 私はその探求に全身全霊をささげている。"

94年2月19日、デレク・ジャーマンは此の世を去った。エイズと言う病気が彼を蝕み、同性愛者の権利のために戦い続け、ジャーマンの心には常に怒りと憤り、そして死への焦りがあっただろう。実際、彼が映像作家として精力的に活動し、作品を発表していたカラヴァッジオからエドワードUまで、そこには彼の負の感情が溢れていた。その負の感情は、見るものに不安を抱かせ、ジャーマンの抱いた悲しさを感じさせた。イギリスにおけるゲイへの迫害、前衛的な彼の映像表現に対する不理解の声、そしてエイズという病にかかった自分自身の体の裏切り。
だが、このBLUEという、一切の映像を廃し、コバルトブルー一色の映像の上に台詞とSEだけが流れ続ける映画には、そういった彼の負の感情が感じられない。
この映画は、すでにエイズによる合併症を発病し、入院した後に書かれた日記、詩を基に構成されている。病気に対する描写は詩的で、しかしながら驚くほど客観的。彼がベッドに横たわり、そこで彼が見ている光景が、自分の目で見ているかのごとく浮かんでくる。腕に繋がるチューブ、飲み込むことさえ困難な大量の薬、横たわっているベッドの質感、窓から差し込んでくる光、そして克明に説明される悪化していく病状。彼の感じている痛み、苦しみ、辛さ、青い映像の中に全てが浮かび上がってくる。
なのに、死に対する恐れや、病気に対する憤りを全く感じない。それどころか、最期の時間を慈しみ、楽しんでいるかのようにさえ聴こえてくる。それは決して諦めから来るものではなく、まして、開き直りから来るものでもなく、もはや、遣り残したことは無いという充足感から来ているのではないだろうか?ここに映し出されているのは、彼が捜し求めていたBLUE。彼の血そのものであり、彼の心そのものである。
この映画は彼の遺作であり、正に遺書というべき最期の作品だ。死を目前に控えた彼の想いの全てが、この限りない青の中に込められている。彼の遺言は、深い青に包まれて、優しく、穏やかに、時に激しく心に響き、染み渡る。
彼は、「危険は承知」という最期の著作を、次の言葉で締めくくっている。

"どうか君たちに、より良い未来と、不安の無い愛が訪れますように。
私たちも愛していたことを覚えていて欲しい。辺りには闇が迫り、星が輝きだした。
私は愛に包まれている"

僕はあなたに逢えて本当に良かった。あなたの愛を知ることが出来て本当に良かった。あなたの人生が愛に包まれていたように、僕らの人生も愛に包まれるよう願ってくれて、本当にありがとう。あなたの青の探求は、この映画で終わったけれど、あなたが遺してくれた青は、僕に新たなる青を見つけ出す旅への道を示してくれた。僕は死ぬとき、一体どんな青が目の前に広がるのだろう?願わくば、あなたが遺してくれたデルフィニュームのブルーを感じたい。
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記憶の彼方へ
ジャーマンが此の世を去ってから、もう8年の月日が流れた。彼の最期のインタビュー映像が、ここに遺されている。彼が撮った幾つかの映画に対しての言葉。BLUEを撮り終え、既にエイズによる病状の進行は止められず、自らの死期を知っているかのような言葉の数々。彼は映画監督でありながら、自らを映画監督とは思っていなかった。でありながら、彼は一作たりとも、自分の撮りたくない映画を撮ることはなかった。そして、興行的に成功したとは決していえない作品たちだが、その全てが、未だに愛され、新たな人たちに届き続けている。ジャーマンは自らの映画を、ゆっくりと燃え続ける火と語った。彼の映画を見た人なら、その火は必ず見える。そして思うだろう。彼の火は消え、忘れられることは決してないだろうと。記憶の彼方へ。ジャーマンに触れた全ての人々の記憶の彼方へ。
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