秀衡街道 義経街道
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宮城県仙台市泉区
中世以来の平泉への古街道である。後に奥州街道(現国道)ができ、とって変えられた。仙台市内から上谷刈に通じる生活道路としてその後も存続していたが各所で寸断されたり、道筋が変化している。街道の名称も義経街道、奥州街道。奥州山道などと呼ばれる事もあった。 |
頼朝街道
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栃木県宇都宮市河内町
河内町で義経街道と呼ばれている道とほぼ同じであるが大塚、長峰を通過せず白沢を通り下橋に向かったと伝えられている。頼朝が通った事から頼朝街道の名がある。頼朝が通ったのは義経の頃よりかなり後のことである。 |
義家街道 八幡太郎街道
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栃木県宇都宮市河内町
永承6年(1051)安部一族の追討した前九年の役と永保3年(1083清原家衡を滅ぼした後三年の役の時、二度とも大軍を率いてこの地を通ったという伝説が残っている。この道は昔、宇都宮に通じる重要な道であったという。 |
義仲道
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福井県南越前町湯尾
今庄と湯尾の間にある湯尾峠を通る古道が義仲道と伝えられている。源平時代の寿永2年(1183)の燧城の戦いで木曽義仲が一部を改修した事から義仲道の名がある。古峠は現在地より東に百米のあったという。 |
弁慶通り
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和歌山県田辺市
弁慶は実在した人物であるか定かではないが田辺で生まれたとする説が地元では広く信じられている。根拠は「義経記」の記述で弁慶は熊野の別当の子で、幼名を鬼若丸といった。後、比叡山で修行し武蔵坊弁慶と名乗ったという。
駅前の広場には弁慶像が立ち駅の近くには「弁慶通り」も存在している。 |
楠公道路
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大阪府島本町
阪急京都線の水無瀬駅から楠木正成父子別れの地である桜井駅跡までの道で楠公道路と名付けられている。町の木である楠の木の並木道となっている。 |
楠公通り
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佐賀県佐賀市白山
佐賀八幡宮境内西側に楠木正成・正行を祀る楠神社がありこれが楠公通りの由来となっている。楠公通りはその楠神社の西側の東西に走る通りである。
楠公通りはここ以外にもいくつか有り確認しだいリスト載せたいと思います |
尊氏通り
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栃木県足利市
足利は足利氏発祥の地で建久7(1196)年に足利義兼によって創建された鑁阿寺(ばんなじ)の参道には尊氏の像もある。
足利尊氏(1305〜1358)は室町幕府の初代の将軍で。初めは高氏といったが後醍醐天皇の一字を賜ってから尊氏と称した。 |
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道灌山通り
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東京都荒川区西日暮里
道灌山は太田道灌が江戸城の出城として築いたといわれている。通りの名前もこの地名に因んでいる。太田道灌説とは別に鎌倉後期の武将の関道閑の屋敷があった事から道閑山と呼ばれたという説もある。また、西日暮里駅の隣の日暮里駅前には太田道灌騎馬像がある。荒川区と道灌は縁が深いようである。 |
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太田道灌(1432〜1486)
室町中期の武将で、歌人でもある。扇谷上杉定正の家臣であり、名は資長、俗に持資といったが、1458年には剃髪し、道灌と号した。築城・兵馬の法に長じ、江戸城を始め川越・岩槻など諸城を築いた。
写真は道灌山通り
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駿河台道灌道
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東京都千代田区駿河台
駿河台道灌道は明大通りと本郷通りのあいだに位置している。中央大跡にできた三井海上の南側の道がそれにあたる。道名由来ははっきりしないが道灌道の中程にある太田姫稲荷神社と関係があるようである。この神社は太田道灌の娘の病気平癒を願って建立された。 |
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道灌通り 岩槻
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埼玉県岩槻市
岩槻城は一説に太田道灌に築城されたといわれている。跡地は岩槻公園となっている。道灌通りは岩槻駅近くワッツ東側の道路に名付けられているが表示等は無い。反対側の人形通りにははっきりと街灯に印されており対照的である。岩槻市役所前には太田道灌の立像がある。 |

太田道灌 |

道灌通り |
道灌通り 品川
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東京都品川区北品川
御殿山城は太田道灌が居住したいわれる。その後道灌は江戸城を築城し、江戸城へ移っている。御殿山城は現在、御殿山ガーデンやホテルとなっており、道灌通りはその西側にある。通りは静かな住宅街となっており小さな立看板を見逃すと見つけるのは難しい。
下の左の写真が道灌通り。
下の右の写真御殿山城址。
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早雲通り
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神奈川県箱根町
早雲寺の南側を東西に走る旧東海道が早雲通りとなっている。
北條早雲(1432〜1519)
戦国時代の武将で出家して早雲庵と名乗った。出自は伊勢氏らしいが、他にも諸説がある。はじめ今川氏の駿河におり、堀越公方足利政知を滅ぼして伊豆を併せ、のち相模を奪って小田原城に入り、後北條氏五代の基を開いた。 |

早雲寺 |

早雲通り |
是政通り
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東京都府中市
是政通りは東京競馬場東側の南北の道である。是政は付近の地名ともなっており、戦国時代の武将で井田摂津守是政に由来している。是政の墓は競馬場のコースの内側にあり、多くの競馬ファンの目にさらされている。 |
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